自分と無関係なのに自分がその人になったような気持ちで考える癖があると疲れる。

しかも自分に起こってないのにその気分になって、さらにそんな気分の出来事を引き寄せる事になる!

私たちはよくその人の立場になって考えなさいと言われて育つ。

思いやりの場ではそれは多少はいい事なんだけど、やりすぎると他人との境界線が薄れる。他人軸に考えてしまうのだ。

自分自身がコントロールできない範囲を考えると自分ではどうしようもないので無力に思えるし腹が立つ。

しかし!

よく考えるとまず自分がコントロール出来ないんだから、自分の力や努力とは関係ない。自分の問題ではないのだ。

boundaries
最近あった話。

私はフェミニストまでは行かないんだけどかなり「男女平等」を重視している。オーストラリアはかなり男女平等なのでそれはかなり満足。

最近日本帰国の際に水族館に行った時アコヤパールを貝から取り出す体験会をしていたので子供たちとお父さんと並んだ。

私らの前には1人の女性。「次順番だからねー」と後ろの自販機周りに置いてあるソファに座っている誰かに話しかけている。子供たちが座ってるのだろう。と私は思っていた。何度も言ってるのに来ない。笑

「次だよー」とさらに何回か呼んだあと、彼女らの番になり彼女がその席についた。

そしてそこへ登場した人物はなんと!!!

彼氏!!!!!!!!

ここで他人事ながらキレた。

はー?彼女に列待たせて自分だけ座ってんの?何様のつもり?一緒にやるなら自分も列に立って待てや!後ろから亀の水槽に落としたろか!と。

さらにアコヤパール、2人とも体験するのに彼女が払っている。それを見てキレた。その上からの立場の態度どうにかならんかい!

彼女もなぜそれでいいんだ!!!完全にシモベじゃないか!そんな奴以外にもぜったいいるって!一緒に並べや!お前が今回払えやと言えば良いのに!!と。

友達でもない他人に対しての怒りがすごい。

なぜそれでいいんだ。と。

Stand up for yourself!!!!と。

この話をまゆみさんに話してた時に気づいた。

彼女は列で待つのが、払うのが、尽くすのが好きなのかもしれない、と。それが今その人がやって幸せを感じているのかもしれない、と。

それを平等なのが幸せなんだ、そんな自分だけで列に待たせる彼氏は最悪だと私がとやかく言う必要ない。

2人がそれが幸せなら外野が何かを言う必要ないってことなのかもしれない。

そこで、少しでも、私ばっかり待たせて、とかいう感情が彼女に少しでもあるのなら違っているのかもしれないが、他人の問題は他人の問題。他人をもまるっとそのまま認めるって自分目線でなく、あなたは今それが幸せなのね、それをしたいのねって映画を見る感覚でいいのかもしれない。

私は自分が思う幸せを他人に押し付ける、をしてた。そしてそれを見るだけで自分に起こってないのに自分の事のように怒り、自分の波動自体を複雑に動かしていたんだなと気づいた。

アドラー心理学では[課題の分離]と言うらしい。

他人の課題に土足で踏み込んでるようなもの。

他人の課題か自分の課題かの見分け方は簡単。

「責任を負うのは誰か。」そして

「自分がコントロールできるか。」

両方Noであるならば、他人の課題である可能性が高い。私の場合には100%他人の課題!笑

自分の理想をそんな見ず知らずの他人にまで押し付けてた私、気づいてなかったから自分でも驚いた。子供たちには押し付けていないか再確認した方が良さそうだ。