最近タフティについて色々な人が他人のタフティ解釈についてディスっているのを見て思うんだけど、
みんな自分が幸せになりたくて読み始めたはずなのに
突然「どの方法が正解か?」に拘るからおかしくなっていくんじゃないかって思う。
人の世界観を自分の中に全部取り込む必要はない。
タフティ本の内容は、ゼランドの世界観であって
その世界観を100%理解できるのはゼランドのみ。
そして前の記事でも書いたけど、ゼランドはカルロス・カスタネダのシャーマニズムの影響を受けているのでその理解になる、ただそれだけ。もし彼がヴェーダ哲学やタントラ思想にもっと影響を受けていたのだとしたら、後頭部の上のビンドゥ・チャクラについてフォーカスをかけていたんではないかなと思う。
他人の世界観は、全てを取る必要もないし全てを好きになる必要もないと思っている。
ディズニーランドに行った時に学生の頃はよく全部のライド制覇!とか言って朝一で入って全部乗れるかやったこともあるけど、その中でも自分のお気に入りと乗らなくてもいいかなーってのが必ずあると思う。
私はジェイミー・オリバーの料理が好きでよく作るんだけど、だからと言って彼のレシピを全て作るわけじゃない。ドナ・ヘイのも作るし、スリークッカーのボロネーゼのレシピも好きでよく作る。外食も好きだし。
それの寄せ集めで、私のレパートリーという「私の食卓に並ぶ料理」が構成されている。
だから、幽体離脱の方法が「気づきの中心点」だろうが体の中だろうが、頭の中だろうがその人の好き好きなんだよね。
だから他人がその場所だと断言していたとしてもそれに対して間違っている!!!と言わなくてもいいのでは?と思う。
少なくとも私の好きなエイブラハムはそう言うだろう。
あなたはそうなのねー!私はこうなんだよ!一緒だよOr違ったね!って。
私は、自分自身の思考のおしゃべりがすごいというのを初めから自覚してるので、左脳を元の状態に戻すと言う「イマココ」に居られる体・五感に集中することを願望実現の第一歩に置いているから、幽体離脱の方法は「今を感じられない」「今を体感できない」からやらない。
ベガスのスフィアでは色々な映像が映って風が吹いたり匂いが出てきたりするんだけど、その映像に出てきた場所に実際に行って「体感」したのとは全然違う。体感したら忘れない。
ただ私には分からないけど、体を外から見るスタイルが合っている人もいるわけで、それは自分の世界観から話しているのだからあなたの世界はそうなんだね、と放っておいてあげて自分の世界観を深めていけばいいんだって思う。
